二宮社長の告白

憧れの業界でトップセールスマンに

私が最初に就職したのが東京のアパレル会社。
憧れの業界だったから、もう必死になって仕事をしました。
営業で「一番」になりたいと、休日返上で働き、
ホントにトップセールスマンになった。
高卒も地方出身も関係ない。
「やる気さえあれば人生は切り拓いていける」
この時、身を持って感じました。

ところが、この会社がつぶれてしまった。
憧れて入った会社は今になって思えば、倒産前、倉庫は返品の山でした。

その倒産があったから、ロジスティクスに出会った時、
コレだと直感できた。そして、のめり込むように勉強していきました。

NO1

若かりし頃の二宮写真

年収1000万を棒に振って独立

アパレル会社の次に就職した先が、急成長していた佐川急便。
ここでもがむしゃらに働き、
年収も1000万円を超えるまでになりました。
結婚し公私共に充実、まさに順風満帆でした。

そんな時、ある光景を目にし、雷に打たれたような衝撃を覚えました。
センブンイレブンジャパンが福岡進出!というニュースを聞き、
第一号店のオープンを見に行った時のことです。

1店舗をたった5人の正社員で動かす様子を見て、
「必要な物を必要な時に必要なだけ供給する時代がきっと来る」
と予見しました。

このjust in timeの供給に可能性を感じ、
「ニーズを満たせば必ず成功する」という自信があった。
この頃から私は独立を夢見る事となります。

しかし、子どもも生まれたばかりという時に
安定した生活を捨て、独立の夢を追うことは無謀な賭けに等しい。
妻も心の中では佐川に残ってほしいと願っている。
その気持ちが痛いほど分かるだけに、自問自答する日々が続き、
眠れぬ夜をいく晩も過ごしました。

しかし、独立への思いは薄れるどころか、日に日に強まる。
どうせやるなら、人が出来ない事をやる。
「県内に3便体制で供給できる運送会社をつくろう」と腹をくくりました。
昭和58年10月、友人と共同経営という形で
シティー即配便(後のシティーライン)を立ち上げました。

あの不安はどこへやら、行動すればキチンと結果が出てくる。
軽自動車で動くから、”安くて速い”。需要に応じて
just in timeで供給したので、滑り出しから好調でした。
それまで大手業者もできなかった県内どこでも3時間以内の配達を、
産声を上げたばかりのシティーラインがやってのけ、
あっという間に車の保有台数が120台になりました。

NO2

「運送業から物流業へ」

その頃です、ロジスティクスという言葉を知ったのが。
日本にも近い将来、物流革命の時代が来る。
ちょうどjust in time が社会悪のように言われ始めた頃です。

NO3

’92年 ロジスティクス関西大会においての二宮のメモ書き

マーケットは多品種少量の時代になる。
その中で運送業者が生き残る道。
それが、市場の売れ方に合わせて
生産から消費に至るまでモノの流れを管理する
“ロジスティクス”でした。

ところが、友人は、相変わらず運送の事が第一優先。
「運ぶだけでは運賃競争になる。それではダメだ、先を見ないと」
物流業の必要性をいくら話しても聞き入れてくれない。
「何で分かってくれんのや」と、反目する日々が続きました。

ぎくしゃくした関係は会社のためにもならない。
悩んだ末、「運送業から物流業になる」と宣言し、
友人との別離を決意しました。辛い決断でした。

使命感に燃え、決意新たに再出発

そして平成9年、私の思い描く物流サービス業の会社 (株)シーエルをスタートさせました。

 

人生の最大の喜びは 命をかけても惜しくない 対象に出会うことである 私はシーエルに命を賭けているか この問いに答えることが 生きることであり この問いに答えることが私の人生である これは(株)シーエルの創業元年に書いた経営企画書の一部で 私の経営哲学そのものです。 「どんな事があっても成功する」 「ロジスティクスを広め、企業を救う」 「シーエルを大きくする」 使命感と野心に燃えての再出発でした。 創業当時の熱い思い、カタイ決意を忘れないために、 今でも時々、経営哲学を引っ張り出しては 大声で読んでいます。 創業以来、私たちシーエルは 150社にわたる企業の物流コストを削減してきました。 その中にはこの国を代表する、そうそうたる企業が名を列ねます。 クライアントは国際的な大手商社、 大手通信会社、 大手システム会社、 また地域では抜群の知名度がある企業ばかりです。 この縁を頂いた事をたくさんの人に感謝します。